面影山は今木山・甑山(こしきやま)と共に因幡三山の一つで、標高108メートルの山です。その美しい姿が天の香久山に似ているとして、万葉歌人や国司達は都に残した妻子などを偲んで面影山と名づけました。
「わが兄子が 面影山のさかゐまに 我のみ恋ひて見ぬはねたしも(大伴坂上郎女)」は有名。面影山は幾多の古墳(面影山73号墳など)や歴史をひめた碑文・伝説等の宝庫です。
恵心僧都が造った雲山の経塚立岩大権現と正蓮寺の毘沙門三尊。鳥取藩家老職下池田家の菩提所である雲山の法清寺。また、桜谷の伝説長慶天皇御陵、大杙(面影1丁目)の塩竈神社、八百比丘尼や孝行狐お孝女郎等の伝説などがあります。
★面影山の古墳群
面影山には約100基が点在し、明治時代玄室のある2基を発掘して東京国立博物館に陳列の品もある。昭和60年夏、大杙地区では、前方後円墳が発掘された。
★恵心僧都と立岩権現
今から約千年前の長保年間比叡山の高僧恵心僧都が巡錫の砌り、蜘山に立ち寄り国家安穏・五穀成就・悪疫退散を祈願して、法華経を一石に一字宛て書いて、経塚を造り封土の上に2.30メートル位の石碑を建てたものを立岩という。霊験あらたかで航海安全や脳病の神としてあがめられ、参詣者が跡を絶たない。眺望絶佳、鵯尾城跡で屡々激戦があった古戦場である。
★正蓮寺毘沙門天(鳥取県保護文化財)
昔恵心僧都が巡錫の際正蓮寺に止宿し、蜘山村の本願寺門前にあった光り杉を譲り受けて毘沙門・吉祥・禅弐師の三尊を手彫りし、正蓮寺に安置した。その後、南北朝と戦国時代に二度の兵燹に罹ったが寺僧達が石窟に匿したりして、修験者が護った。江戸時代鳥取藩家老荒尾志摩が寺跡に護国山多門寺を建て祀り、明治維新後は修験山内家で祀っている。
★法清寺
雲山の曹洞宗法清寺は、通称下下田家の菩提所である。池田家は歴代家老職(着座家)を勤めた。
下下田家の祖は、元和3年池田光政が初めて因伯2州の藩主となったとき随行してきた池田利政である。池田利政は輝政の3男で八橋で1万石を領していた。本尊は由緒ある高王白衣観音。境内の「菩提樹」は鳥取市の保存樹木指定を受けている。
★長慶天皇伝説
第98代長慶天皇の伝説の陵墓と皇子玉川宮・皇孫東の御方の墓があり、いずれも、宝篋印塔である。長慶法皇は元中9年(1392年)閏10月南北朝の講和が成り、後亀山天皇と共に吉野より嵯峨大覚寺に還幸された。そして、後亀山天皇は三種の神器を北朝の後小松天皇に譲渡された。その後、長慶法皇はお忍びで大覚寺を出られたまま、行方をくらまされた。因幡の守護・山名氏は丹波国桑田郡千歳村千年山に潜行になっていた法皇を因幡にお迎えした。法美郡面影山の麓の正蓮寺に移られ、その後今在家の北浦御殿に移られ、そこを御所裡と称した。その後、この山里において崩御され、陵墓は桜谷字岡谷通称御王畑に造られたと伝えられている。