伝説は、「ある特定の事物を真実の話として伝えたいという意志を持って伝えられてきた一群の話」とされています。科学的知識がほとんどなかったその昔、伝説の中の神秘的な世界を皆がしっかりと信じてつつましやかに暮らした結果、民間信仰が生まれ、その地の歴史・文化を育んできました。賀露に伝わる代表的な伝説は「吉備真備伝説」です。
吉備真備伝説
聖武天皇の頃、唐から帰国途中の遣唐使吉備眞備は九州沖で嵐に遭い、賀露沖の宮島に漂着しました。宮島から隣の大島に飛び上がって避難したので、その大島を「トリアガリ島」(現在の「鳥ケ島」)と呼んだそうです。
その後、真備公は賀露の村民によって島から陸地に引き上げられました。これを「奉曳(ほうえい)」といいます。現在の賀露神社の「ホーエンヤ祭」はこの故事に因んでいます。
また賀露には、イタヤ貝漁が盛んだった頃、海の底から貝を引き上げる辛い労働を唄った「ホーエンヤ節」が伝わっています。お囃子の「ホーエンヤ」は、吉備真備公伝説に由来するといわれています。
「ホーエンヤ」には、「引き上げる」という意味が込められています。賀露は「ホーエンヤ伝承の地」として、吉備真備伝説、ホーエンヤ節を後世に伝えています。
※ホーエンヤ節については、公民館大倉庫「
賀露のホーエンヤ話」をご覧ください。
吉備真備について
吉備真備は、奈良時代の学者、公卿(国政を担う最高の職位)です。霊亀2 年(716 年)第九次遣唐使の留学生となり、経書や史書のほか天文学、音楽、兵学など幅広い学問を学びました。
帰朝した吉備真備は、当時の中国や朝鮮の先進的な文化と学問を取り入れ、古代日本における学問の発展に寄与しました。また政治家としても活躍し、奈良時代の日本の政局に影響を与えるなど、日本の歴史や学問の中で高く評価されています。
寛文12(1672)年 因州鳥取城下處士(注)小泉友賢が記した「賀露神社縁起」には、吉備真備が帰朝の際、賀露沖の島に漂着したとの故事が記されています。また、漂流で濡れた衣を埋納した丘「エナ塚」についての記述があります。この地は通称「米倉(よなぐら)」と呼ばれる賀露神社の飛び境内地で、現在の「賀露町西三丁目辺り」と語り継がれています。
※注 處士(しょし)十分な学才があるのに官に仕えない在野の者
参考資料 岡村吉彦(2012)賀露港(鳥取港)の「みなと文化」
賀露町自治会(2009)賀露誌
小沢さとし(2011)「民話」と「昔話」「伝説」について

賀露みなと公園の記念碑