相撲は、古代日本の宮中行事の一つでした。戦国時代、貴族の都落ちによって京都の文化が全国に広がり、その中に相撲を本職として生計を立てる相撲人が出現しました。
また、神社仏閣の建築修復の資金調達のための興行(勧進)や、神社の祭礼の際に相撲が行われることが多かったことから、これらを「勧進相撲」と称して興行が行われました。
因幡地方は古くから相撲が盛んな地で、「因幡に行きて小角力(こずもう)とるな、出雲で小謡唄うな、作州で小棒ふるな」という諺もあります。
賀露も、多くの相撲人を輩出しています。「ひょうたん」という民話は、賀露町出身の力士「山野井鷲之助」がモデルです
民話「ひょうたん」
賀露の大力(強い力のある人)が、砂につけた足跡が「ひょうたん」に似ていることから、その男は「ひょうたん」と呼ばれ、鳥取藩のお抱え力士になりました。
江戸で他国の力士と相撲をとった時、相手力士が禁じ手を使ったため、ひょうたんは相手の首を捻って殺してしまいました。
これに怒った相手力士の殿様は、ひょうたんを殺そうと賀露に帰る道中の茶店に毒飯を準備させました。これを食べたひょうたんは病気になり、二十八歳で病死したそうです。
「ひょうたん」こと山野井鷲之助は子どもの頃から力が強く、地引網の一方を一人で受け持ったといわれています。因州鳥取藩池田家のお抱え力士で、佐渡が嶽部屋に入門し、関脇まで出世しましたが、若くて亡くなりました。東善寺には、山野井鷲之助も含めて賀露ゆかりの力士の功績を称える力士塚が十四基と船問屋竹田與平塚の計十五基が並んでいます。
【賀露・晩稲の力士塚】
・東善寺門前:大和川久太郎、山野井鷲之助、磯ケ島直右エ門、志賀ノ浦淺次良、大和川徳五郎、濱柳文七、留碇甚七、大和川徳四郎、山嵐安五郎、濱柳吉五郎、響灘作五郎、響灘久四郎、浜柳兵一、木村鹿之助
・賀露町北四丁目新道入口:今錨米吉
・晩稲公園隣接地:豊島新平