江戸時代末期の子どもたちは、寺子屋や学習塾で教育を受けていました。賀露の寺子屋は賀露神社、東善寺、西念寺にありました。明治5年に日本最初の近代学校教育制度を定めた学制が発せられると、翌明治6年(1873)、賀露村に甲校、乙校の二つの小学校が誕生しました。
甲校は賀露村東善寺の庫裏(くり)、乙校は賀露神社宮司岡村喜保氏が開設していた寺小屋に開設しました。当時は義務教育ではなく、行きたい子が行く、勉強したい子が勉強するという学校でした。明治19年に尋常小学校の4年間が義務教育になったものの、6年制に改められ、完全義務教育になったのは明治40年です。
賀露町は旧鳥取市内とは砂浜で隔離され、また、浜の人間という気性もあって教育的な環境には恵まれなかったようです。いわしのとれる季節になると「いわしのはみ※だど、はよもどれ」の声で、教室は空っぽになったそうです(明治30年頃の記録)。
学校の先生たちのご苦労もたいへんだったようです。大正末期に賀露小学校に転勤を命じられた先生は、友人から「君は賀露校へ転任するそうだから鞭をあげる」と言われ、「いや僕には鞭の必要はない、僕は涙で教育して見せる」と言い返したという回顧録が残っています。昭和4年に転勤を命じられた先生は、「(転勤先が)灘辺の賀露と知ったときは、何かしら、驚怖の念で一ぱいだった」と回顧されています。「潮風にさらされた賀露の子どもは、いつの時代も教師をてこずらせ、悩ませてその勇名を周辺にとどろかせた」ようです。
兎に角、悪童として知られた賀露の子どもたちでしたが、その本質を理解していたのも、先生たちでした。昭和23年、賀露町出身の西元智完、西原輝男両教諭を中心に「本を読む運動」が繰り広げられ、校内の文化活動が推進されました。この活動の一環として西原輝男教諭は「賀露健児の歌」を作詞作曲されました。この歌には、悪童と呼ばれながらもふるさと賀露を想い、力強く育っていく賀露の子どもたちの姿が刻まれています。
北に洋々日本海 背には中国山脈を
眼下に清き千代の 流れに育つ賀露の友
いざふるい立て賀露健児
うるわし自然に恵まれて よき先輩の意をついで
平和な郷土を築くため 日夜学びにいそしまん
いざふるい立て賀露健児
当時、巷には「リンゴの唄」が流行していて、子どもたちが心から歌える歌がありませんでした。この歌が発表されると幼い子どもたちまで「いざふるい立て」と歌ったそうです。
昔は粗野だった賀露の子どもたちも、今はその面影はなく、150年の歴史が子どもたちを取り巻く教育環境を大きく変えました。しかし賀露の風土が変わることはありません。
この春、小学校に151回目の新入生が入学してきました。きっと次の子どもたちも、学校や地域の人に見守られながら、たくましく、優しい心を持った若者に育ってくれることでしょう。
※はみ(食み):魚が水面に出て呼吸し、又水中に戻る様子
2024年5月

撮影時期不明 出典 賀露校創立百周年記念誌
※ 写真をクリックすると「鳥取市立賀露小学校の歴史(PDFファイル)」が見えます