鳥取平野は、海の浸食によってつくられた谷が、礫や砂により埋め立てられてできた平野です。1万9000年前から始まった温暖化により海水準が上昇した頃は、賀露神社や上小路神社附近の丘陵地以外は海の底にありました。
※右図は後氷期最大海進時の頃の鳥取湾入部(新修鳥取市史より)
1000年以上前、千代川河口にまだ集落が成立していない頃は、網漁の時期になると他国の漁師が賀露の地に出稼ぎに来ていたという話が残っています。江戸時代に入ると上賀露には船大工・商人を中心に、下賀露にはアジヤ(網元)を中心とした集落が生まれました。この頃の賀露の地形は寛文期に描かれたとされる「寛文大図」で伺い知ることができます。
※寛文期:1661年〜1673年 江戸幕府将軍は第4代徳川家綱

寛文大図(複製の一部)
弘化2年に描かれた賀露神社所蔵の「因州高草郡加路浦湊絵図」には、賀露港の地形や船の係留場所などが詳細に描かれています。鳥ケ島に向かって砂洲が延び、千代川河口の様相も変化しています。
※弘化2年:1845年 江戸幕府将軍は第12代徳川家慶

因州高草郡加路浦湊絵図(一部)
昭和に入っても、まだ賀露の大地のほとんどは砂地でした。昭和7年に賀露にマグロの大群が押し寄せた時の記録映像には、鳥ケ島東側の海岸線の様子が映っています。今日のような姿になったのは、戦後、砂丘地農業の発展や港の改修によるもので、賀露の歴史の中では、つい最近の出来事だったのです。

昭和7年賀露にマグロの大群が押し寄せた時の記録映像より抜粋(撮影吉田窓月)