賀露誌には、「江戸時代、因伯両国で湊といえるものの多くは沿岸漁業の根拠地に過ぎなかったが、賀露湊は鳥取城下と直結する商港として栄えていた」とあります。商港として栄えた賀露湊を振り返ってみます。
江戸時代、鳥取藩は「運賃積み船(荷物を運ぶことによって輸送費を稼ぐ船)」で年貢米(廻米)を大阪市場へ輸送し、売却して現金を得ていました。この商船を「廻船」といいます。寛政5年(1793)の鳥取藩の調査では因幡国155艘、伯耆国91艘で、因幡の廻船のほとんどが賀露浦、芦崎(青谷)浦の船だったと考えられています。
廻船の多くは小型船で、冬季は海が荒れてとても危険な航海でした。江戸時代中期、鳥取藩は廻米の輸送量を増やすため大型廻船の建造を奨励しましたが、建造は進まなかったようです。江戸時代後期、民間船では十分な輸送ができないと考えた鳥取藩は、藩所有の廻船(御手船)で輸送を行うようになり、民間の廻米輸送の仕事は減ってしまいました。
江戸時代中期から明治30年代にかけて、日本海沖では、北海道と大阪の物流を担う大型廻船の北前船が航行していました。北前船は商品を積んで港に入り、そこで商品を売り、更にその港で商品を買い込んで次の港で売るという「買積み船」です。廻米輸送の仕事が減った賀露湊の商人たちも、買積みを始めました。
明治に入り、藩の船は売却され、制約が多かった交易も自由になりました。因幡・伯耆最大の消費地である城下町を後背地に持つ賀露湊の廻船は、明治20年代から30年代にかけて全盛期を迎えたようです。
明治中期以降、鉄道や通信技術の発達に伴って買積み船は衰退の一途を辿り、賀露湊は商港から漁港へと移り変わっていきます。千代川の河口にあって浅瀬という悪条件だった賀露湊は、千代川の改修や港湾整備で立派に生まれ変わりました。
鳥ケ島が浮かぶ新春の賀露湊を眺めると、日本海の荒波に夢を追い求めた賀露湊の商人たちの姿が浮かんできそうです。かろのお宝「賀露湊」に、私たちは次世代の夢を託したいと思います。
※ 賀露は「加路」、「加露」と表記される時代がありましたが、「賀露」に統一しています。
※ 参考文献 中林 保(2011)「因幡・伯耆 日本海廻船」
賀露町自治会(2009)「賀露誌」
ガイドブック「北前船49」

賀露湊に浮かぶ廻船(明治30年頃)