奈良時代、東大寺は寺の経済を支えるため、全国で荘園開発を進めました。
天平勝宝8(756)年、現在の野坂川下流域の鳥取市嶋付近から布勢にかけての一帯と湖山川東一帯に約70ヘクタール(東京ドーム約15個分)の巨大な荘園「高庭荘(たかばのしょう)」を設け、地元の豪族を荘園の開発と経営に当たらせました。南隈、晩稲の地もこの荘園の一画を占めていました。
しかし開発は進まず、荘園の一部を売却してしまい、東大寺に残った田はわずかとなりました。収穫が大幅に減少したため、東大寺は土地を買い戻そうとしましたが、国司の協力が得られず、成功しませんでした。
やがて土地は、荒れ果ててしまいました。その理由の一つに、この地は低湿地で、千代川の氾濫が頻発するなど不安定な土地であったことが上げられます。
長保6(1004)年、東大寺は地元豪族に荒田を開発するよう協力を求めましたが、やはり失敗し、この時の記録を最後に高庭荘の名は史料にみられなくなりました。
それから700年ほど、時間を進めます。
言い伝えによると、南隈村は賀露から分家した村で、最初は上村家、岩崎家、徳持家の三軒だったそうです。(千代水村誌 南隈部落雑話)
また、晩稲村西村家の古い建物を取り壊した際、古い戸の一枚に「高草郡 出村、大字晩稲」との記録が見つかりました。出村とは「賀露村から離れた飛び地の村」という意味です。(千代水村誌 晩稲部落雑話)
1701(元禄14)年、賀露村の一部だった南隈村、晩稲村は賀露村から別れ、この地に新たな歴史と文化をきざみ始めました。(角川日本地名大辞典)
しかし高庭荘と同じく、洪水や風水害との戦いの連続でした。
今日の繁栄は、先人達の労苦の上にあると言っても過言ではありません。

資料引用 砂と水と緑のふるさと 浜坂と江津
出典
角川日本地名大辞典
千代水村誌
砂と水と緑のふるさと 浜坂と江津(浜坂地区自治連合会)