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つどう まなぶ むすぶ 鳥取市立賀露地区公民館

電話でのお問い合わせはTEL.0857-28-1034

〒680-0909 鳥取県鳥取市賀露町南5丁目1718-3

ふるさと賀露を知る 「シル・チズ」


歴史の足跡マップ




     
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ご案内


@ 鳥取港西突堤 A 加路台場 B 脱衣塚 C 貝殻屋敷
D 御番所跡 E 賀露神社 F 六万坊大筒稽古場跡 G 旧賀露保育園跡
H 旧賀露小学校跡 I 賀露村役場跡 J 造船所跡 K 製糸工場跡
L 鳥取市営飛行場跡 M 賀露の砂丘地 N 高庭荘

@ 鳥取港西突堤


鳥取港西突堤は、千代川から流入する大量の砂と漂砂をくい止めるため、千代川河口左岸から北に400mの所にある鳥ケ島までを閉め切る突堤で、明治23(1890)年春に着工されました。現在は、鳥ケ島に接する付近100mほどの西突堤が残っています。撤去された石の一部は、賀露地区公民館庭に飾られています。(▲ ご案内へ)

A 加路台場


台場は、幕末から明治維新期にかけて全国で約千基築造されたとされています。賀露は鳥取城下を流れる千代川の河口左岸という要衝の地であったことや、北前船の寄港地という当時の流通の要所でもあったことから2台の台場が造られ、大砲があわせて8門備えられました。(▲ ご案内へ)

B 脱衣塚(吉備真備展望公園)


遣唐副使吉備眞備が賀露沖の宮島に漂着した後、住民の手によって陸地に奉曳(ほうえい)されたと伝えられています。上陸直後に海水で汚れた着物を木製の箱に納めて埋めたと伝えられ、その地を「脱衣塚(えなづか)」と呼んでいます。(▲ ご案内へ)

C 貝殻屋敷


大正の終わりから昭和の初め、鳥取県はイタヤ貝の豊漁に恵まれました。賀露には多くの加工場があり、身剥ぎの作業が行われ、貝殻が捨てられました。その後、貝殻は埋め立てられ、その上に家屋が建てられました。この住居地は「貝殻屋敷」と呼ばれました。(▲ ご案内へ)

D 御番所跡


江戸時代の日本では、交通の重要な地点に警備や監視を行う「御番所」が設置されました。鳥取港の番所は1630年頃(江戸時代寛永年間)に置かれ、入港する船の乗組員や物資を厳しく監視しました。(▲ ご案内へ)

E 賀露神社


賀露神社は、小高い丘の上にあります。参道は傾斜に沿って130段の石段が続きます。石段をのぼり、隋神門(ずいしんもん)をくぐると拝殿が見えてきます。境内の入り口に水が貯められた手水舎(てみずや、ちょうずや)がありますので、ここで手と心を清めた後、境内を散策しましょう。境内には、全国でも珍しい虎の狛犬があります。(▲ ご案内へ)

F 六万坊大筒稽古場跡


六万坊は鳥取市賀露町の小字名で、現在の賀露地区公民館辺りです。安政4(1857)年、この地で鳥取全町の塵芥を肥料として開作が始まり、桑苗の栽培が始まりました。安政7(1860)年、因伯海岸防御のため、六万坊が試射場となり、野戦筒の試射が行われました。これ以後六万坊射撃場で、大砲の試射が数回行われています。
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G 旧賀露保育園跡


旧賀露保育園は、昭和20(1945)年4月に、五区会館(クラブ)の階下を借りて開園しました。昭和23(1948)年4月に、賀露小学区の一教室に移転。昭和25(1950)年3月に、当時の賀露小学校のグラウンド東側の上段に当たるこの地で新園舎の竣工式が行われました。(▲ ご案内へ)

H 旧賀露小学校跡


明治6(1873)年5月、賀露村に甲校(東善寺庫裏)と乙校(賀露神社宮司岡村喜保宅)の二つの小学校が誕生しました。明治9(1876)年に合併、明治12(1879)年に初めて校舎が新築され、平成3(1991)年に全面移転されるまで、賀露の子ども達の学びの地となりました。 (▲ ご案内へ)

I 賀露村役場跡


明治22(1889)年の市制・町村制施行により、高草郡賀露村が発足しました。当初、賀露村役場は、東善寺南側にあったと思われます。昭和4(1929)年12月、役場を賀露町1069番地に移転。昭和12(1937)年2月15日、賀露村は鳥取市に編入し、同日賀露村は廃止となりました。賀露村役場の建物は鳥取県水産試験場へ譲渡されました。その後、この地は鳥取市役所賀露支所、賀露公民館として利用されました。(▲ ご案内へ)

J 造船所跡


湖山川左岸(賀露町二区)には、昭和40年代初頭まで造船所が建ち並んでいました。寛永9(1632)年、初代鳥取藩主池田光仲公が岡山より御転封の際、初代大和屋分之丞が随徒し、賀露に転住して船大工を営業したとの記録があり、大和屋がこの地の造船所の起源だと考えられます。現在この地は、住宅地となっています。
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K 製糸工場跡


戦前、賀露町一区にあった石原製糸工場には200 名くらいの従業員が働いていました。戦時中工場は閉鎖され、終戦後も復活されることはありませんでした。昭和23(1948)年頃ソーメン工場となりましたが、2年ほどで倒産。昭和31(1956)年頃には缶詰工場ができましたが、昭和52(1977)年頃労働争議により工場閉鎖となり、玉川商店に引き継がれ、現在では住宅地になっています。(▲ ご案内へ)

L 鳥取市営飛行場跡


昭和17(1942)年、賀露町に福田軽飛行機株式会社が試験滑走路を造りました。その後、日産輸送機株式会社が継承して陸軍航空機練習機飛行場となり、昭和32(1957)年には鳥取市営飛行場として供用が開始されました。昭和39(1964)年に廃止となり、跡地は住宅地となりました。この住宅地は、現在も滑走路の形状を残しています。(▲ ご案内へ)

M 賀露の砂丘地


昭和2(1927)年頃、現在の7区より西側一帯の半分くらいは小松林でしたが、養蚕が盛んになり桑畑に変わりました。戦時中は、福田軽飛行機会社、日産工場ができて社宅や住宅が多くなりました。また8区の西側一帯も桑畑でした。奥の西側は雨量の多い時は土地が低いため排水がきかず、この一帯を水溜りとも言っていました。
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N 高庭荘


高庭荘は、奈良時代から平安時代にかけて、西は湖山池東岸の布施郷、東端は江津に広がっていた巨大な荘園です。天平勝宝8(756)年、奈良の東大寺が寺の経済を支えるためにつくりました。しかし荘園内の開発が進まず、藤原氏に売却。10世紀末にはほとんど荒廃地となり、荘名をとどめるのみになりました。 (▲ ご案内へ)