雲山と大路山

 昔むかし、行基菩薩(ギョウギボサツ)という偉い和尚さんがいました。行基菩薩は全国を廻って、寺院の建立・田畑の測量・そして多くの道路・橋・池などを作りました。因幡の国の湖山池の辺を歩いてた時、湖山池の水深が浅いことに気がつきました。「そうだ、この池を埋め立てて広い田んぼを作ろう」と考えました。

「さて、土はどこから運ぼうかなあ。そうだ、あの向こうに見える氷の山という高い山の土を力持ちのアマンジャクに頼んで運んでもらおう」と考え、アマンジャクに大金を渡して、土の運搬を頼みました。土運びを承諾したアマンジャクは、大きな大きなモッコを二つ拵えてから、氷の山の土をモッコに山のように高く積み上げました。土を掘り取った跡は深い谷になり、また、その谷を流れる水は多くの滝になりました。


 アマンジャクは空高く真直に伸びた大木を切り倒して天秤棒とし、重い重い二つのモッコを肩の前後に振り分けて、「エッコラショ」と立ち上がりました。「ヨイショ、コラショ。ヨイショ、コラショ。」と、八東往来を湖山池目指して急ぎました。

若桜を過ぎ、郡家を通り抜けて、鳥取平野までやって来た時、突然、前のモッコの綱が切れました。前のモッコの山盛りの土がドサンと落ちて、田んぼの真ん中にひしゃげた形で残り、後ろのモッコの土は少し離れた場所に形のよい盛土の姿のまま残ったので、鳥取平野の真ん中に二つの山ができました。ひしゃげた山は雲山、盛土のままの山は大路山と名付けられました。

 湖山池の埋め立ては成功しませんでしたが、行基菩薩は鳥取平野を測量し、条里制区画の基準となる土地に、大きな杭を立てて都に帰ったと伝えられています。

 大きな杭の立った村の名前を大杭村(大杙村)というようになりました。