大杙の玉川八幡宮

 

  

 「長い間、よく仕えてくれて大変感謝している。しかし、この度のことは禁令にひっかかるので、決して許すことはできない。因幡の国へ流罪することに決定した。」と将軍は側近く仕えていた奥女中、東の御方に申し渡しました。

 東の御方は深く頭を下げました。東の御方は長慶天皇の皇子・玉川宮の息女でありましたが、足利将軍に仕えていました。同じく将軍家に奉仕していた若い近習番と、禁止されていた恋仲になり、その事が将軍の耳に入ったのです。


 東の御方は、子どもの頃からかわいがられていた太助とおさきの夫婦二人をともにして、京都を出発し、艱難辛苦の山陰道の旅路を苦労を重ねながら、漸く因幡の国へ辿り着きました。

 当時、因幡の国の守護・山名氏は、ある時期、吉野の朝廷・南朝に仕えていたことがあったので、南朝の末裔である東の御方を丁重に待遇しました。東の御方は、長慶院法皇(長慶天皇)をお祀りしているといういわれのある面影山の長慶院という寺の近くに、観音堂を建てて住まいとし、長慶院法皇の御霊の安穏と玉川宮家の息災を祈り続けました。村人達も東の御方が天皇家の御一族であることを知り、親切にして東の御方の生活を助けました。

 数年の月日が経過しました。都に住む父君・玉川宮は、因幡に流されている東の御方のことを忘れたことはありませんでした。年齢は六十代の半ばを過ぎていましたが、意を決して、因幡に住む東の御方を尋ねることにしました。長い旅路は大変辛いことでしたが、子を思う親心は強く、無事面影山の観音堂に到着することができました。親子は数年ぶりの再会を喜び合い、睦まじく暮らしました。しかし、老齢の玉川宮は長い道中の旅の疲れが出て、間もなく病床に就かれ、お亡くなりになりました。

 玉川宮の深い親心に感動した村人達は、一つの社を建てて玉川八幡宮ととなえ、長慶院法皇と玉川宮を合祀して、お二人のご冥福を祈ったと伝えられています。また、東の御方は間もなく罪を許されて、都へ帰りました。