正蓮寺の毘沙門天

 

 

 昔むかし、都に恵心僧都という、大変偉いお坊さんがいました。仏の教えを広めるため、全国を巡りました。ある時、因幡の国の正蓮寺という寺に、やってきました、ありがたい説教を聞くために、大勢の村人達が集まりました。為になる話を聞いた後、ある村人が手を上げて「隣の雲山村のお寺の境内に、とっても大きな古い杉の木があって、夜になると、高い梢の先の方がボーとあやしく光るので、光杉という名前をつけていますが、本当に不思議なことです」と話しました。

 恵心僧都は、仏の魂が宿った大変ありがたい木だと感じました。その杉の木で仏像を彫ることを決心しました。心の汚れを落とし身を清めて、毘沙門天・吉祥天・禅ニ獅童子の三尊を彫り上げ正蓮寺に奉納しました。霊験あたらかな毘沙門天を信心する多くの善男善女が正蓮寺へ参詣しました。その後、南北朝鮮の争いに巻き込まれた正蓮寺は、戦火で焼失しました。その時、寺のお坊さんは、いわれのある毘沙門三尊を、お寺の後ろの岩穴に運び込み蓋をして逃げました。お寺はなくなりましたが、正蓮寺という村の名前は残りました。月日が経過しました。ある時、諸国を行脚していた修行僧が正蓮寺後を尋ねて来ました。

修行僧は夢で因幡の国正蓮寺の毘沙門天が、暗い洞窟の中に長い間閉じ込められているので助けてほしいという声を聞いたのです。修行僧は村人の助けを借りて、朽ちかけていた毘沙門三尊を掘り出し、小さな毘沙門堂を建てて祭りました。その後、戦国時代の頃、堂は再び戦火にかかり焼けましたが、この時も近くにいた修験者(山伏)によって、無事救出されました。江戸時代、鳥取藩の家老、荒尾氏は毘沙門堂の由来を知り、正蓮寺後に多門寺という寺を創建し、その本尊として毘沙門三尊を迎えましたが、明治の始め、廃仏棄釈により、多門寺は廃寺になりました。毘沙門天・吉祥天・禅ニ師童子の三尊は近くの毘沙門堂に移され、福徳の仏様として、人々の厚い信仰を集めています。