番外長慶院由来記

番外 長慶院由来記(要約)

  文化九年(一八一二年)因幡大杙村長慶庵主・秀元

 

 因幡の国の面影山にある明徳山長慶院というお寺の由来を調べてみると、昔、大和の国の吉野にあった朝廷(南朝)の帝・長慶院法王(第九八代長慶天皇・後醍醐天皇の皇孫)は、皇位が吉野の南朝から京都の北朝に譲位されたという情勢の変化に、大変ご立腹になり、京都を離れ、丹波、但馬を経て因幡の国の国主であった山名氏冬は、このような身分が高くとうといお方を自分の領内にお迎えしたので、心をこめてお世話をした。

 長慶院法王は、しばらくして病に伏し、お亡くなりになった。側近くに仕えてきた者たちは、誰もが嘆き悲しみ、面影山の山中の良い場所を選び葬った。

 ところが、このことがいつの間にか都に伝わり、長い間長慶院法王の側近として仕えていた権大納言藤原長親の娘、長谷姫という方が、都から山陰道を経て因幡の国へおいでになり、長慶院法皇のご冥福をお祈りする場所として、面影山の山上に一寺院を建て、明徳山長慶院と称え正各法印(熊王丸)を創始者とした。

 それからしばらく後のこと、長慶院法王の孫にあたる東の御方という姫君が、足利将軍に仕えていたが、永享九年(一四三七年)わけがあって因幡の国へ流罪となり、面影山の長慶院の近くに観音堂を建立して住まいとした。

 更に数年後、玉川宮という方が都より因幡の国へ下ってこられ、東の御方と一緒に観音堂に住まわれた、玉川宮は、長慶院法王の皇子であり、また、東の御方の父に当たる方であった。姫君の流罪を大変悲しまれ。姫君の跡を追って遠路はるばる都から因幡の国へおいでになったのである。そのとき、すでにご老体であったので長旅の疲れも加わり、間もなくお亡くなりになった。

 後の世、麓の村人達は面影山の見晴らしの良い所を選んで社を建て、玉川八幡宮と称えて、長慶院法王の御霊と共に玉川宮を合祀した。

 長慶院は長い歴史の間に、度々、火災などに遭ったため退廃していたが、江戸時代の中頃、鳥取興禅寺の千岳和尚は、ある時。長慶院の深い由来を知り興禅寺の末寺として長慶院の再興を藩主池田候に願い出、許可を得たが間もなく死去されたので、同寺寂潭和尚は千岳和尚の志を受け継ぎ、面影山の麓の大杙村に一庵を建立した。これが大杙村長慶庵の始まりである。享保十二年(一七二七年)長慶庵は類焼したが、村民は申し合わせて規模を縮小し再建した。その後、大火で興禅寺も類焼し長慶院関係資料は殆ど焼失してしまったもようである。上述の如く明徳山長慶院は、深い由来のある寺であるが、重ね重ねの不幸に遭遇している。もしこのまま放置しておけば、以上述べたような大切な由来が焼失してしまう恐れがある。よって私は先輩の住職たちから、これまで聞き伝えてきたことの概略をここに記録しておくものである。

(文責 面影郷土史研究会)